『いつか別れる。でもそれは今日ではない』読了
『いつか別れる。でもそれは今日ではない』 F著
Twitter発の本。以前よりツイートを拝見していたFさんの著書。発売してすぐは、手に入り辛かったのでKindleで購入した。けれど文字数が多かったのと、何度も読み返しそうな気がしたので紙の書籍も購入した。
全体的には散文的。しかし随所に多数派への疑問、厭世観が書かれており、人によっては、価値観の土台になりうるのではないかと思う。そしてFさんは都会の刹那性とか、儚さを言葉にするのがすごく上手い。
以下、好きな文章
婚活や合コンの場で、女が男を落とすテクニックというものは急速に定式化されている。(中略)
本当に賢く生きるとは、こんな陳腐な競争から、さっさとドロップアウトするということではないか。定式から外れるということではないか。つまりは女子力を完全に死語にするということである。自分磨きというものを放棄するということである。正常位のような退屈な受け身を、やめることである。
サラダは取り分けなくてよし。無理に笑わなくてよし。季節感なくてよし。ピンクの服を着なくてよし。スマホの画面も割れててよし。野蛮でよし。生きていればよし。
モテの定跡に意義を提示している。
小手先の技術でどうにかなる関係なんて確かにその程度なのかもしれない。
恋愛市場において常套手段を使わずに戦うのというのは、常套手段を使う以上に難しいのではないかと思う。しかしこういった粋な心は常に持っていたい。背筋が伸びるから。
その人が放つ色気の量と、その人が積み重ねた教養の量は、ぴたりと比例するのではないかと私は思う。
勉強する目的は、世界を広げるためだと言われる。確かに一理ある。花を一つの有機物と見る生物学。花を一瞬の人工美に変える華道。あるいはその花言葉から一つの短編を創る文学。もしくはその花に百年の憂いを見出す哲学、定型文にその美を凍結させる詩歌学。その花を誰にどこでどう売れば利益を最大化できるか考えるのはマーケティング学か。視点は多ければ多いほどいい。それを楽しむ視座が増える。
(中略)
本当の勉強の目的は、こうだ。
いつか出会うであろう、自分の手に届くか届かないかもわからない、魅力的な人を、ほんの少しの会話で、獰猛に自分の世界に閉じ込めてしまう=色気を手に入れるため。
こちらの文章については常に思っていることなので、綺麗に文章にしてくださっていたので胸がすっとした。
どんなに見た目が美しくても、その人の底の浅さのようなものを見ると失望してしまう。しかしこれは、自分についても言えることなので自戒も込めている。
憧れの人や目の前にいる大切な人と、少しでも対等な目線でお話しできるよう、本をたくさん読み、音楽を聴き、多角的なものの見方ができるようになるのだ。
雨が降った後の匂いは、植物中の鉄分と地表の微生物とが混じったものらしい。つまりは遠い昔の、誰かの死体の一部が混じっている。雨の匂いがどこか懐かしく、死を静かに連想させるのは、きっと偶然ではないのだろう。
何となく畏怖の念や死を連想させるものは確かにある。雨もそのうちのひとつ。私はなぜその対象についてそのような気持ちを抱くのかわからなかったが、このように理由を探せばいいんだ。
太宰治は本当に素直になりたい時に何度でも立ち返るとよかった。三島由紀夫は美しいと思うものを「美しい」という言葉を遣わずに表現する言葉を教えてくれた。夏目漱石はふてぶてしく生きたいときにちょうど良い。芥川龍之介は言葉や物への感度を極端に上げたい時に良い。谷崎潤一郎は、もう変態でもいいやと思わせてくれる。村上春樹の小説に出てくる主人公は、ふと気を抜けば強く濃く射精している。
この文章はすごい。簡潔にそれぞれの特徴を表している。そして最後の村上春樹の件で笑ってしまう。F氏がどういう意図でこの文章を書いたのかはわからない。しかし、真顔で本気なのかジョークなのかわからない、シュールなことを言われるのがツボなのでつい笑ってしまうのだ。
好きな作品なので、つい長くなってしまった。
私にとってこの本は、気が付いた時にパラパラめくり襟を正す感じだ。
また、宇多田ヒカルや椎名林檎、メルカリ、地名、固有名詞の使い方が巧みなので何年後かに読み返したら、おもしろいと思う。