『華氏451度』読了
SFやファンタジーは、難しいイメージがあるので自分から進んで読まないジャンルだ。読んだきっかけは、 寺山修司の『幸福論』で取り扱われていたから。
というのも、寺山氏の『幸福論』はわたしにはとても難しく理解ができなかった。そこで、引用に多く登場しているこの『華氏451度』を手にとってみた。
まず“華氏”という言葉に馴染みがない。
わたしたちが普段生活で使う「水は100℃で沸騰する」の℃は摂氏、それに対して華氏は℉と表記する。 詳しくはWikipediaをご参照。華氏 - Wikipedia
タイトルの『華氏451度』は、紙が引火し燃える温度。(華氏451度は、摂氏233度)
作中の世界では、書物は違法とされ所持する人は見つかり次第、即刻処罰の対象となる。そのやり方はなかなか酷く、本の所有者を本ごと、家ごと、時には所有者をも一緒に燃やしてしまう。
燃やす人は昇火士と呼び、昇火器で書物を燃やすのだ。
この昇火士(原作ではファイアマン)を、伊藤典夫さんは昇火士と訳しており、これが世界観に合っていて読みやすかった。
本来、焚書士/焚書官などと訳すのが自然だが、焚書という言葉自体に暗いイメージがある。作中では、書物は精神に害をもたらすため悪とされている。その元凶である本を燃やす行為は、当然のように肯定的に受け入れられている世界だ。そのため「昇火」という明るく肯定的な響きがよく合っている。
本が禁止された世界で人々の娯楽は「ラウンジ壁」、「巻貝」だ。ラウンジ壁はテレビ、巻貝はイヤホンでラジオを聴くこと。
どちらもモノローグ的というのだろうか、一方的に受け身でいれば延々と情報が入ってくるという共通点がある。そのせいで人々からは、著しく思慮深さや多角的な物事の見方がなくなっている。
フェーバーは、本がなくなった世界に足りないものは3つだという。
1、情報の本質
2、余暇(考える時間)
3、1と2の相互作用から学んだことにもとづいて行動を起こすための正当な理由。
わたしたちの生活の中では、この「巻貝」、「ラウンジ壁」に相当するのはスマートフォンなのではないかと思う。
スマホも気をつけなければ延々と情報を受容するばかりになってしまう。しかし、操作権はあくまで自分にあるので、ラジオやテレビよりは主体性があるので幾分マシなような気もする。
質の良い情報を仕入れることも大切だが、それと同じくらい仕入れた情報を自分の中で咀嚼し、反芻する時間が大切だと言っている。これは現代社会でも大切なことだ。
印象に残った場面
「ご存知かな、本はナツメグやら異国のスパイスのような香りがすることを。子どものころ、本のにおいを嗅ぐのが大好きでね。ああ、昔は素晴らしい本がいくらでもあったのに、みんな消えてしまった」
モンターグが持ち込んだ本を、手に取ったフェーバーが言った言葉。
これを読んでわたしもこの本のにおいを嗅いでみた。たしかに紙からはスパイスのような香りがした。この香り、紙の手ざわり、重み、ページをめくる音…全てが揃ってこその読書だと思っている。 フェーバーのこの行動には書物への愛を感じた。
技術の発展がめまぐるしく、生活はどんどん便利になっていく。そして情報の速度が速く余暇が取りづらい社会だ。しかし、だからこそ立ち止まって考える時間を意識的に作る必要がある。一歩的に与えられるばかりにならないために。